HENNGEの「変化」を創業者3人が振り返ってみた

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3年後の2026年には30周年を迎えるHENNGE。創業の経緯やプロダクトの変遷、変化と失敗を恐れない独自のビジョンやカルチャーが生まれた背景のほか、いま求める人材について、創業メンバー3名がざっくばらんに語りました。
漫画で読みたい方は、こちらの記事からご覧ください!


こんにちは。今日はよろしくお願いします!早速ですが3人はどんな幼少期や学生時代を過ごされたのでしょうか?

ファミコン代わりに父に買ってもらったパソコンの「MSX」で、プログラミングに没頭する子ども時代でした。高校生になるとモテるために、パソコンを庭に埋め、バンド活動などで青春を謳歌するのですが、結局あまりモテなかったですね(笑)。ところが浪人中に秋葉原の電気街で見たパソコンの進化に衝撃を受け、再びパソコンに興味を抱くようになりました。

両親が共働きだったのでおばあちゃん子。祖母と「四国八十八カ所参り」をしたり、3歳で般若心経を諳んじたりと穏やかな子どもでした。中学でワープロ専用機を手に入れ、高校では父に教わった「パソコン通信」に夢中になりました。大学は理系に入学したんですが、3年次に文転。学生劇団に熱中するあまり留年し、実家からの仕送りが途絶えたという思い出も(笑)。

ビギナー向けのパソコン「MSX」を小学4年生の時に買ってもらい、ゲーム作りのプログラミングに夢中になりました。高校は大阪府内屈指の進学校に入学したんですが、「勉強では一番になれない」と悟り、少林寺拳法部の活動に没頭。大学でプログラミングの基礎を学びましたが、人と会ったり話したりするほうが好きでした。好奇心が強く、ヨーロッパなど一人旅などをしていました。

そもそも、3人はどうやって出会われたのですか?

大学生でプログラマーのアルバイトをしていた時、バイト先のパソコンを業者にネットワークで繋いでもらったんですが、「自分ならもっと安くできる」とビジネスの可能性を感じたんです。それで3年生だった1996年に、学生や社会人が集まり「ホライズン・デジタル・エンタープライズ」(HENNGEの前身)を起業しました。最初はパソコン家庭教師やWEB制作、パソコンの引っ越しを行う何でも屋でした。

仕送りが途絶えたので、パソコン家庭教師のバイト募集をしていた「ホライズン・デジタル・エンタープライズ」に出入りするようになったんです。小椋たちと話していたらインターネットの可能性に魅力を感じるようになって。目の前のお客さんが喜んでくれるのが嬉しかったですし、プロダクトを作って会社化していく過程も面白かったです。

私も大学3年の時にバイト募集のチラシを見たのがきっかけです。当時はパソコンの技術を活かしたバイトが珍しかったので、小椋たちの活動に衝撃を受けました。大学は理工学部でしたが、専攻とは違うことがやりたくて、営業やマーケティングに熱中するようになって。小椋たちの視野の広さに惹かれ、一緒に働くことを決めました。

創業後、最初の製品はどんなものだったんですか?

1997年に発売したLinux(※)サーバー管理ツールです。当時新しく出てきたLinuxというOSを使えば誰でもインターネットに接続できたので、企業に「安くインターネットに接続できて、ホームページを持ったり、メールで顧客とコミュニケーションをとったりできる」と売りに行きました。
※LinuxとはWindows10やMacOSなどど同じOSの一種で、主にサーバー用として使うOSです。

Linuxサーバー管理ツール「Linux Controller 1.0」の発売直後のイベント(1999年ごろ)

当時お客様もIT投資ムードが高まっていて、これは結構売れましたね。

一方で、お客様からは専門的すぎて使いづらいという声もあり、技術者とお客様のギャップを感じるようになりました。ユーザビリティの橋渡しをする人がいないと、イノベーションが生まれても、結局お客様に届かない、それではダメです。そこで私たちは「テクノロジーの解放」を経営理念に掲げました。「ギャップを埋める努力を続ける」ことで社会に貢献する。そう決意を新たにしました。

HENNGEのビジョン「テクノロジーの解放で世の中を変えていく」はこうして生まれたんですね。その後、ITバブルも経験されましたが、当時の雰囲気はどうでしたか?

私たちは1998年に渋谷に来ました。最初は会社の規模も小さく、よく近所のお弁当屋さんに卵や唐揚げをおまけしてもらったりしていたんですが(笑)、しばらくすると渋谷は、米国のシリコンバレーに倣って「ビットバレー」(渋い:bitter+谷:valley)と呼ばれるようになるんです。まさにITバブルのど真ん中。投資したいという人たちが現れ、空気感が変わりました。

2000年ぐらいになると、私たちもベンチャーキャピタルから数億円投資してもらうようになり、それに合わせてとにかく売り上げも急拡大という動きになりました。

ところが、その熱狂と高揚はバブル崩壊で一気に終焉し、2002年ごろには一度会社が倒産しかけたんです。

ITバブル崩壊で倒産しかけた後、どう立ち直ったんですか?

もともとLinuxサーバー管理ツールを販売していたので、Linuxと相性が良いメール事業を2000年に立ち上げました。大量のメールを配信する技術は当時から難しかったので、事業はかなり順調でした。

メール配信の仕組みは、特に金融業界で大きなニーズがあり、銀行のATMでお金を下ろした際に届くメールなどで使ってもらいました。

2008年のリーマン・ショックの影響はどうでしたか?

リーマン・ショックで銀行、保険、証券など金融業界が一斉にモノを買わなくなりました。

あの時、各社のSEも仕事がなくなり自宅待機になりました。それで代理店が他社からソフトウエアを調達するのをやめて、空いている自社SEにゼロからシステムを開発してもらうフルスクラッチ開発をする動きになり、われわれのパッケージソフトウェアが売れなくなるという現象が起きたんです。ここで再び倒産の危機に陥りました。

振り返ると、この頃は変化を忘れていた時期だなと思います。ITバブル崩壊の反省から、地に足の付いた経営に舵を取っていこうと「会社づくり」に集中していたため、新しいことをやっていこうという気持ちが少しなおざりになっていた気がします。

新しいことをやる、その大きな方向性は考えられていませんでしたが、一方でまだマイナーだった「クラウドもやっておいた方がいいのでは」という意見がちらほら出ていました。

そこで、メインプロダクトのクラウドセキュリティサービス「HENNGE One」が生まれるんですね。

2011年春に東日本大震災が発生して、クラウドが注目されるようになるんですが、そこで会社として考え方が一挙に変わりました。クラウド技術が生まれ始めたのが、今のビジネスに変わる大きな転換期でした。

時代のタイミングもあり、東日本大震災で急にみんながクラウドを使い始めました。外部環境の変化が起こった後では対応できなかったと思います。私たちはスタートを先に切っていた分、運が良かった。震災までのクラウドは未知数で、まだ使えないと言われていましたから。

会社に来ることができない、家で働かなければいけないという、目の前に現れた大きな隙間に、開発を進めていたクラウドセキュリティサービス「HDEメールサービス」(現・HENNGEOne)を投入したわけです。変化を先取りしていなければ、実現できなかったです。おかげさまで同製品はクラウド・セキュリティ分野において、現在に至るまで高い評価を得ています。

2016年から「英語公用化」を施行されますが、踏み切った理由はなんでしたか?

まず当時、ソーシャルゲームの会社が国内のエンジニアをすごく高い給料で採用していたという背景があります。ちょうどスマホが普及し始めた頃です。採用にかなり苦戦しました。

話し合いの中で「そもそも国内で採用する必要があるのか?」という展開になったんです。「別に日本語ができる技術者にこだわらなくてもいいのでは?」となり、海外採用に踏み切りました。実際、優秀な人がたくさん来てくれました。意外だったのは、日本で働きたい、東京で働きたい人が想像以上に多かったこと。これはうれしい誤算でした。

アメリカ、中国、インドネシアなど人口が多い国を中心に、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリアなど22以上の国と地域(2022年9月末現在)からエンジニアを含め多くのメンバーが来てくれましたね。

いまではどこの会社でも当たり前ですが、いち早く社内にムスリム用のお祈り用の部屋も設けました。「いろんな人がいて当たり前」という環境をすぐに整えたのです。

「いろいろな人がいる」これこそ価値だと気づかされました。多様な価値観が社内に広がっていくと「会社の中にいろんな背景を持つ人がいる」のがあたり前になって雰囲気が変わった。うちは失敗を許容する文化を大切にしてきたつもりでしたが、実際は一様な組織だったんです。多様な価値観を持つ人がいると、いろんな失敗があって、チャレンジも起こりやすい。英語公用語化は、ダイバーシティや「変化」を動かすエンジンにもなってくれたんです。

失敗を許容する文化といえば、HENNGEはバリューに「アーリーアダプターであり続けるために、青い果実を食べる(Eat unripe fruits and make mistakes early)」を掲げていますよね。

HENNGEのビジョン「テクノロジーの解放」を具現化するためには、私たち自身が未成熟な果実である新技術を積極的に食べて、時にはお腹を下しながら、どの果実が役立つのかをお客様に届ける必要があります。お客様に新しい価値を届けるには、まずはHENNGEのメンバー同士が交流することで新しい発想を生み、たくさんチャレンジして失敗することが大切だと考えています。

失敗を許容する文化はどうやって成り立っているんですか?どこまで挑戦していいか不安な人もいると思います。

僕ら自身が日々失敗していますからね、たくさん。まさに失敗の数は、挑戦の数。

ですね。失敗の裏返しには猛勉強があると思います。挑戦するまでにたくさん考え抜いていれば、失敗しても学べることもたくさんあります。失敗するなよではなくて、熱意を持って研究し尽くしたか、失敗が学びとなっているかを問うている会社です。

挑戦を続ける決意から、2019年には社名を「HENNGE」に変更しましたよね。

「変化」があたり前になれば、何が起きても乗り越えられる。激動の時代だからこそ、あらゆる「変化」に挑む。そんな思いから社名を「HENNGE」としました。日本生まれのIT企業として、世界中をワクワクさせたいという夢を込めた名前でもあります。

変化(HENka)と挑戦(challeNGE)を組み合わせて「HENNGE」なんですね!そんなHENNGEの強みや弱みを教えてください。

「HENNGE」の組織は、音楽に例えると即興演奏が特徴的なジャズに似ています。楽譜の音にこだわらず、アドリブでパッとメロディを奏でるみたいな。もともと学生の集まりでしたからジャズっぽい雰囲気だったんですが、途中で指揮者の指示通りに全員動くオーケストラみたいになった。でも上手く機能しませんでした。今では社員数も増えてきたので、オーケストラの人数でどうジャズを演奏するか、難しい課題ですが、マネジメントの立場として何とかしてチャレンジしたいです。

多様性があるのは良いことだと思います。会社にいながら世界中放浪するような擬似体験もできるし、社内ランチイベントでいろんな国の料理を食べたり、行ったことのない国の話を聞いたり、日々の仕事の中で知的好奇心が満たせるのがとても面白いなと思うんです。

最後に、HENNGEが求める人材はどういう人ですか。

よくベンチャー企業に期待するのは、カリスマ経営者が「ああしろ、こうしろ」と指示することですけど、うちは自ら積極的に動く人が多いです。本当にみんなよく勉強しています。変化とチャレンジを楽しめる人は「HENNGE」に向いているのかなと思います。

チャレンジするのが好きな人って類型がある気がするんです。私が感じているのは、ビジネス以外の分野で「自分の好きなこと」を深く語れる人、何かのジャンルをとことん突き詰めている人です。自分の軸が二つある分、物事を違う視点で見ることができる。そういう人とコミュニケーションをとると、新たな発見があって楽しいんですよね。

この業界は、数年で知識が陳腐化してしまいます。だからこそ、新しいことを楽しめるかどうかが大切。人との違いを尊重しながら、違いに好奇心を持ち、日々新しいことを見出していく習慣も大事です。それは「HENNGE」の使命でもある、多様性の中からイノベーションを生み出し、労働生産性を上げながら、新しい価値を生み出していくにも通じます。我々が変化(HENNGE)し続けることが、社会全体を変化させ続けることだと信じています。

ありがとうございました!


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