日本人は伝統を重んじない民族?
歴史から学ぶ積極的に「変化」を取り入れる姿勢

日本人はずっと伝統を大切にして自分たちらしさを守りつづけてきたと言われる。その一方で、進化を促すにはどんな時代でも挑戦や変化は不可欠なはず。それは現代の日本でも変わらない。果たして日本人はずっと伝統に固執してきたのか、変化することに及び腰だったのだろうか。数多くの著作やテレビ番組出演で、分かりやすく歴史を解説する歴史作家の河合敦先生に、弊社代表小椋一宏が「日本人の変化」についてお話をうかがいました。

本日はようこそお越しくださいました。よろしくお願いいたします。

どうぞよろしくお願いいたします。着物姿で素敵ですね。

ありがとうございます。今日のためというわけではなくて、いつもこの格好でいるようにしてるんですよ。

河合 敦(歴史研究家・歴史作家)
1965年東京都生まれ。多摩大学にて客員教授。早稲田大学教育学部でも非常勤講師として教鞭をとる。かたわら、歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。著書に『いっきに!同時に!世界史もわかる日本史』や『世界一わかりやすい日本史』シリーズ、『人生を変える幕末志士たちの言葉』などがある。テレビやラジオなどメディア出演も多数。堅苦しいイメージの歴史をわかりやすく楽しく伝えることをモットーに「世界一受けたい授業」など、歴史の楽しさを世間に伝えている。

いつも着物でお仕事をされてるんですか。

はい。これも今日、お話をうかがいたい「変化」に関わるところがありまして。

IT企業の社長が着物姿というのも印象的ですもんね。今日はぜひよろしくお願いします。

小椋 一宏(HENNGE株式会社 代表取締役社長)
1975年生まれ。一橋大学経済学部卒。 プログラマとしてのアルバイト時代にLinux、インターネットと出会い、大企業を上回る新しい技術への適応力を持つ企業の設立を志し、1996年、ホライズン・デジタル・エンタープライズ(現HENNGE)を創業。起業した後は一貫して技術部門のトップとして会社を牽引し、2009年頃にクラウド技術を社内に持ち込む。企業理念であるテクノロジーの解放に魂を込める技術者社長。

よろしくお願いします。弊社はクラウドを軸にして新しい時代の働き方を応援するサービスを提供しているのですが、それと同時に国際化も意識していて、海外の人材を積極的に登用し、今では全社員で約200名のうちおそよ20%が外国人で15カ国の社員が在籍しています。

すごいですね。

こうやって変化していく中で常にお客様の柔軟な働き方を応援したいと思っています。ただ、急に国際化を進める中で社員の英語力が壁にぶつかりまして。私もがんばって普段から英語で話すようにしているのですが、みんな怖がってなかなか英語を話さない。そこでどうしたらいいかなと考えて、着物で英語を話すようにしたらみんな反応してくれるかもと思いまして。それでこの出で立ちをするようになったんです。

それで着物に。ということは最近なんですか。

ここ4年ぐらいなんです。
襦袢はポルトガル語? 黒船には近づいていった?
どんどん学んでいく姿勢を持っていた日本人


こうして着物で暮らすようになって逆に日本人ってなんなんだろう? なんでみんな着物を着なくなったんだろう? ということを考えるようになったんです。いろいろ調べていくと、平安時代は靴のようなものを履いていますし。

そうですね。

襦袢も和風のものかと思いきや「ジュバン」はポルトガル語由来だと聞いて、西洋に下着を取り入れたのかなとか。日本人は伝統を大切にするあまりなかなか変わろうとしないという一般論が本当なのかなと疑問に思うようになったのです。

おっしゃるとおり、実は『日本人はそれほど伝統を重んじない』民族なんですね。重んじないというか、どんどん新しいものを取り入れていくことにどん欲な人たちなんです。有名なのは信長の鉄砲です。

はい、戦で活用したのはよく知られていますね。

当時、一発撃つのに30秒ぐらいかかり、射程も100mぐらいしかなかった鉄砲を、大量に同時に使うことで弱点を克服したんですね。あと、幕末の黒船もみんな驚いて逃げたなんて言われていますが......。

そうじゃなかったんですか?

実際は結構みんな近づいていって、中には野菜と物々交換でボタンをもらったりした人もいるようです。

かなり物怖じせずに近づいていってたんですね。

日本人はペリーが来航した時に通信機や蒸気機関車の模型を初めて目にするわけですが、そのわずか一年後には実際に走る蒸気機関車を作っちゃってますからね。

すごいスピードですね。

日本人になんでそんなことができたのかということなんですが、幕末に来日した外国人は、日本人は中国などの他国と比べてどんどん異文化について学び、吸収していく姿勢を持っていると記していますね。

日本人は伝統を守ることばかり考えていたというわけではないんですね。
いち早く変化に目をつけることと
行動を起こすことが成功のコツ


幕末から明治にかけて日本は大きく変わるわけですけども、その当時、日本を大きく変えたテクノロジーのようなものもあったんでしょうか。

基本的には外国の真似ですね。ただ極めて素早く精巧に、そして節操なく、お金をいくらかけてもいいという感じで本場のお雇い外国人をバンバン入れて、学問的にも東大に外国人をいっぱい招き入れて、三菱なんかも重役に何人もの外国人を入れたり。

当時は外国人を雇うのにそんなにハードルは高くなかったんですか?

やっぱり三菱みたいなパターンは結構めずらしかったみたいですよ。雇う岩崎弥太郎も英語にコンプレックスがあって、これからは英語が必要だと子弟を外国に留学させています。

やはり英語が中心だったんですね。

そうですね。福沢諭吉は幕末に必死にオランダ語を勉強して、完璧だと思って横浜へ乗り込んだら全然言葉が通じない(笑)。ほとんどイギリス人だったと。そこで必死に英語を学びなおしたんですね。

慌てて英語を学びなおすほど、新しいものを取り入れていった方が得る部分が大きかったんですね。

やはりいつの時代でもどこが重要なのかを読んで、真っ先にそこに飛びついた人が成功しているんです。江戸時代でも、河村瑞賢という人がいまして、この人は豪商になるんですけど。江戸で明暦の大火という10万人が亡くなった大火事があったんですね。河村瑞賢は「大火事になりそうだ」と思った瞬間に有り金を全部持って木曽の山中へ行って、地主から山ごと買ってしまうんです。

すごいですね。

多分、火事になれば材木が足らなくなるってみんな思うんですけれど、実際に動けるかと言えばそうじゃないんですね。でも彼は有り金を持ってすぐ行っちゃったと。

行動が早かったですね。

やっぱり最初に動く人が勝つんですね。二番目、三番目に動いてもそこそこは儲かったとしても、むずかしいですね。
若い世代がのびのびと挑戦するためには
維新の中心になった若い世代


先見の明と行動力が大事なんだなということが分かります。自分も含めてなんですけど、社員の20%が外国人になって思うのは、新興国から来た子なんかはやはり行動が早いですね。どこか私たちが慎重になっているようなところでも行動していくところがあって、そういうところは文化として輸入していかないといけないかなと思っています。

日本人の方は行動が遅いですか。

そうですね。失敗を怖がっているのと、みんなが動かないと動かないという部分もあるのかなと思います。

最初に動きたくないですからね。

あと、これはうかがいたいなと思っていたことなんですけれど、人口構成がいびつになっているところもあるかなと思うんですね。

あるかもしれませんね。

支配層というか会社で言うと上司、社長なんかが失敗経験を重ねた人たちだと、どうしても石橋を叩こうとなってしまいますよね。

上の方がね。

で、多数派が若者という人口構造だとそういう人が主流派になるので、「とりあえずやってみようか」となりやすいのかなと思っていて。たとえば維新でも活躍している人たちがすごく若いじゃないですか。

本当におっしゃる通りで人口比が今と全然違うので。特に幕末って人口爆発期ですごい人口が増えてるんですよ。20代など若年層がすごく増えていて、その圧倒的な若者のパワーにおじいちゃん達は押されていたんですね。

そうですよね。

それに比べて今の若い人たちもエネルギーはすごくあるんですけど、人数が相対的に少ないですよね。やはり年寄りが多いというのは、その人たちが既得権益を離さないので若い人たちはおとなしくせざるを得ないというところがあるような気はします。

今、弊社は人数的に見るとインドネシア人が多いんですね。インドネシアって人口が2.5億人ぐらいいて。

そんなにいるんですか。

ええ、日本の倍ぐらいいるんですけれど、20代以下を見ると日本の3倍ぐらいいるんですよ。なので無意識に自分たちが社会の主流という自覚があるんじゃないかと思うんですね。それに比べると日本の若い人たちは相対的に数が少ないというのが、やはり影響しているように思えるんですよね。

おっしゃる通りですね。圧倒的に数が少ないから冒険するような若者世代は押さえ込まれ、石橋を叩いて渡って来た人たちが主流なので慎重なんですよね。

維新の頃の若い人たちもインドネシアの若い子達のように、無意識に自分たちが社会の中心になっていったんでしょうか。

そうですね。今までの幕藩体制に不満を持つ人がその世代に圧倒的に増えていったので、きっと数の論理はあったんでしょうね。