変化すること、そして複数の軸をもつこと

50歳まで現役としてプロ野球界の第一線で活躍した元中日ドラゴンズの山本昌さん。
30歳を過ぎる頃から、常に変化を恐れずチャレンジを続け長く活躍。また現役時代からラジコンの腕前もプロ顔負けとして有名でした。
HENNGEは山本昌さんに直接、インタビューする機会を得ました。HENNGEとして大切にしている変化へのチャレンジ、そして今後のビジネスパーソンにとって大切になるであろう、複数の軸を持つことについて永留がお話をうかがいました。
HENNGEは山本昌さんに直接、インタビューする機会を得ました。HENNGEとして大切にしている変化へのチャレンジ、そして今後のビジネスパーソンにとって大切になるであろう、複数の軸を持つことについて永留がお話をうかがいました。

今日はよろしくお願いします。実はこの自販機、世界に一台、当社にしかないドクターペッパーの無料自動販売機なんです。一本いかがですか?

おー 凄い! 一本いただきます。ドクターペッパーは中学の時に湯島天神に行った以来ですよ。懐かしい薬の味がしますねー。またどうしてドクターペッパーが無料なんですか?

弊社の代表の小椋が、"優秀な技術者はドクターペッパーが好きなはず"という
信念を持っていまして、社員もお客様も無料でお飲みいただけます。

素晴らしい取り組みですね! では私もドクターペッパーをいただきながら失礼します。

絶頂期に訪れたケガというピンチ
弱気だからこそ、変化を受け入れられた

今年、ご出版された本「笑顔の習慣34 仕事と趣味と僕と野球」を読ませていただきました。

山本 昌氏プロ野球解説者
1984年に入団して以来、32年間中日ドラゴンズ一筋で活躍したフランチャイズプレイヤー。 プロ生活32年、実働29年はいずれも歴代最長で、数々の最年長記録を樹立している。 3度最多勝に輝き、94年には沢村賞を受賞。2006年には史上最年長でのノーヒットノーラン、08年には通算200勝を史上最年長で達成した。プロ通算219勝のうち半分以上の140勝を30歳以降に記録しており、また40歳以降でも46勝を挙げた「中年の星」、「レジェンド」として記録にも記憶にも残る名投手として知られる。 2015年9月26日ブログで引退を発表。10月7日のシーズン最終戦で広島戦に先発し、先頭打者をセカンドゴロに打ち取り、現役最後の登板を終え32年に渡る現役生活に終止符を打った。

ありがとうございます。

印象的だなと思ったのは、ラジコンの世界では技術の進歩に沿って毎年工夫を重ねていく一方で、野球の世界ではフォームを変えるのに勇気がいるといったお話でした。

そうですね。ピッチングフォームについては、僕は30歳の頃に膝をケガしたんです。それまで錚々たる先輩方がそのぐらいの年代でケガをきっかけに落ちていくのを見てきましたから、「自分もこのままパフォーマンスが落ちて終わっていくんだろうな」と思ってたんです。

当時はエース投手でも30代で引退してしまう選手が多かったですね。

僕もそうなるのかなと思っていた時にラジコンと出会って。ラジコンではマシンにいろいろなセッティングをして、タイムアップの仕方もいろいろある、それなら、人間ももっと試せることがあるんじゃないかと。

そういうタイミングだったんですね。

しかもケガをしたのは連続最多勝(93,94年)の後なんですよ。

一番いい時ですね。そんな絶頂期によくフォームを変える決断ができましたね。

多分なんですけど、僕が自分を変えられたのは小さい頃から「すごい時」がないからなんです。

本にも書かれていましたが、すごい時がなかったなんて信じられません。

ずっと補欠でやってきて、たまたまプロになったので、天狗になるような時期がなくて。なので連続最多勝を取った後も、なんか不安なんですよね。不安の中でケガをしたので、「何かないか」とちょうど探している時だったんです。

メンタルがずっとエースだった方々とはちょっと違ったと。

そうですね。弱気が早く自分の危機に気づかせてくれたのかなと思います。
継続したトレーニングに隠されていた父への思い
現役生活の長さは終わってみて実感


高校生の頃からダンベルを使ったトレーニングを続けてこられたとのことですが、それも、そうした謙虚な気持ちがあったからなんでしょうか。

自分で「これはいい」と思ったものは、「やる」って決めちゃうんですね。ダンベルも高校2年の時に1,500円、1,600円だったかな、それで2つ買ってきて手首の運動とか、やった内容を毎日ノートにつけるんです。

はい。

実はそのノートを親父がこっそり読んでるのを知ってたんですよ。

そうなんですね。

だから、親父も楽しみにしてるし、ずっとやんなきゃなというのもあったんですね。今日は調子が良かったとか、今日はこういうピッチング練習をしたとか、ノートに定規で線を引いて、書いていたことは続きましたね。親父が楽しみにしてるんだろうなと。

いいお話ですね。私も息子がいて、少年野球をやってるので感動して泣きそうです(笑)。

ダンベルはその後、プロに入っても毎晩、寮の部屋に一個、遠征バッグに一個、アメリカ留学中もフロリダにありましたから、そう考えると自分で良いと思うことはとことん信念をもってやるということはありますよね。

そういう信念があって50歳まで活躍されたんですね。

やってる本人はなんとも思っていないんですけれどね(笑)。終わってみると、いや、結構高い山に登ったんだなと(微笑)。
選手生命を伸ばした恩師との出会い
根拠のある説明が納得の素になる

弱気なおかげで変化を受け入れられたことの他にも長く続けられた秘訣はありますか。

そのケガをした頃に、鳥取の小山裕史先生というトレーナーと出会ったんです。イチロー選手とか岩瀬もそうなんですけども、だいたい「最年長」と言われる人は小山先生のジムに関わってます。この小山先生という人は野球をしたことがないんですけど、人の動きをすごく科学的にとらえられるんですよ。

体のプロフェッショナルですね。

そうなんです。この辺は皆さんにすごく参考になるんじゃないかと思うんですが、体のことを極めると、超一流の野球選手、イチロー選手にだってアドバイスができるんですよね。

すごいことですね。

「いやいや、先生野球したことないでしょ」って思いますけどね(笑)。でも僕もそうなんですよ。小山先生の言うことは信用できるんです。なんでできるかというと、ちゃんと根拠を説明してくれるので。

指導する上で根拠をはっきりと示していくということは大切ですね。

特に今の若い人たちには納得してもらうことが大切ですね。今の若い子たちは勉強してるし、すごく情報も持っていますし。

はい。

そういう人たちに納得してもらうためにはちゃんと根拠を説明してやってもらう。そうしないと、これからの指導というのはできないんじゃないかなと思います。
上司と部下、監督と選手
選手のやる気を引き出してくれた星野監督


きちんと説明できる人からの指導というのはビジネスでも非常に大切だと思います。特に若いうちは上司がきちんと納得できる指導を行うことが大切です。

そうですね。そういう方にめぐりあえれば、非常に頼りになると思います。

上司から期待されている、昌さんの場合であれば、監督やコーチの方から期待されているから頑張れるということもありましたか。

そうですね。先日、亡くなられてしまいましたけれど、星野仙一さんというのは非常に厳しくて、よう叱られたんです。ほんとに。オーバーに言うと、100回に一回ぐらいしか褒めてくれないんですよ。でも、一回褒められるとコロッといってしまうというのが(笑)。

そういうギャップみたいなのが大事ですね。

ええ、まあ本当に怖かったですけどね。でも、たまに褒められるとうれしいなあ、星野さんのために頑張ろうと。あの方が最初に監督をやったのが39歳の時かな。それであれだけのものを持っていたというのは、やっぱりあの人はすごかったなと思いますね。

そういう方がトップにいると、チームとしてもまとまりが出るでしょうね。

そうですね。やっぱりいい経営者がいるところというのはみんな同じ方向を向けると思うんですが、野球チームも強い時はいい監督の下でみんなが「優勝しよう」と同じ方向を向いてるんですよね。それが、「イヤだよこんなチーム」と思ってるやつがいると、やっぱり......。優勝の方に、同じ方向を向いているチームは強いと思います。

逆に言うと、優勝の芽がなくなるような、チームとして厳しい状況もあると思いますが、そんな時はどういう風にモチベーションを維持されてきたんですか。

そうですね、消化試合という名前があるように、最後の方は......。個人の記録もそうですが、若い選手にしてみればチャンスなので、すごい選手の後のポジションをしっかり狙って頑張れるかどうか、どう経験を積み重ねていけるかは非常に大事でしたね。だからチャンスは必ず来るんです。もし「チャンスが来ない」って言う人がいれば、「あいつはいいなあ」と指をくわえているんじゃなくて、それは努力が足りないんだよと。
役割はいろいろ
15勝6敗も10勝10敗も大切

いつ訪れるか分からないチャンスをしっかりつかまえるのは野球でもビジネスでもすごく大事ですね。

いつかまたチャンスが来るだろうではなく、野球もビジネスも旬で活躍できる時期はそんなに長くないので「もう、これだけしか時間がない」と思って集中しているのが大事じゃないかと思いますね。

たとえチームの成績が悪くても、そういう個人の気持ちは大事ですね。

はい。ただ、幸いにして、私が現役でやってる時は強かったんですよ(笑)。

(笑)

強かったというか、最下位の年もあったんですけど、連続してBクラスということがなかったんです。32年やって、連続Bクラスがないってすごいことなんですよ。

確率的に低いですよね。

そういう意味では強いチームにいられたことと、自分がその中の1ピースとしてエースを支えたり、ピッチャー陣を鼓舞しながらやってこられたかなと思います。

昌さんもエースではないのですか。

私は幸いにして長くやれましたけど、いつの時も必ずエースピッチャーがいるんですよ。私はその下でやってるんですけれど、若い時は同じぐらいの成績を出しましたし、ある程度年齢がいってからも二ケタは勝って、そのピッチャー達をサポートしましたので。野球というのは、優勝するには、もちろん15勝6敗とか7敗のピッチャーが必要なんですけれど、意外としっかり二ケタは勝つといった、10勝10敗が必要なんですよ。

そうなんですか。

企業でもそうだと思うんですよね。もちろんポイントゲッター、貯金をつくる人は必要なんですよね。でも勝ち星を挙げていく中で、五分の人も必要なんですよ。役割として。自分は10勝8敗かもしれないけれど、チームに10個の勝ち星をもたらすピッチャーとしては、晩年は合格だったのかなと思いますね。川上であったり、吉見であったり、チェンであったり、野口であったり、今中であったりと。そういうすごいピッチャーがいて、その陰に隠れていましたけれど。

いやいや、陰だなんてことは。

残念なのは、今、ドラゴンズにこういうピッチャーがいないんですよ。ベテランとしてしっかり10勝はするというような人がいると安定するんですけどね。